往復書簡——石原3
拝啓 崎田さま
恐ろしく返信遅くなりました…前回のお手紙いただいた時はダウンを着ていたのに、桜も散り、世間はゴールデンウィークすら終わった。久々に立ち上げたアプリゲームは丸っと4月ログインしてませんでした。言い訳ですが、本当に仕事が忙しかった…んです…とはいえ、3月の末からゲッコーパレードもブレインストーミングミーティングが2週間毎くらいに行われ、話す機会は定期的にありましたね。
と、いうことで、2ヶ月も前の投げかけに(京都での初めての展示※1について。)今更ながら返答しますが…これもまた少々話しづらい。笑。一度書いてみたものの、日本画出自ゆえの「日本画の呪い」の話になってしまったので、それは一旦は没にさせて頂いて(時折顔を出してしまいそうですが)、先日一緒に見に行った展示のトークと合わせて、作品と語り語られの場所について考えたことを書いていこうと思います。
京都での初めての展示は、数えてみれば9年ぶりの「日本画」と冠された展示への出品であったこともあり、大変緊張しました。これまで特に「日本画」を避けていたわけではありませんし、実際現在でも制作では日本画材を使用しています。ただこれまで活動の場としていた東北は、今いる京都に比べて日本画人口が少ない場所だったことや、「絵画」という形態の方が表現の意図として考えることが山ほどあった、というだけにすぎません。
それでも大層緊張した…というのは、やはり「日本画」を取り巻く空気、みたいなものを自分は読めていないのではないかという卑屈さからきていたように思います。この卑屈さ諸々については「日本画の呪い」と私は呼んでいるのですが…今は閉まっておくとして…とはいえ、たとえば、大学で日本画を教えていると、教科書の中だけの存在だった日本画家の方々のお話しが世間話のように話に出てくる環境にいると、「み、都〜!!!!」なんて思うんですが、「日本画」は、ただただ「日本画材を使用した絵画」ではなく、不文律の「日本画」があるし、それは地域によって随分違うだろうことを、この2年間で痛感していたわけで。日本画の持つ歴史と(これはこれで調べると大変刺激的で面白いのですが)今、ここで表現する自分の接続点を未だなお探し続けているからこそ、ソワソワと緊張し続けていました。
閑話休題。そんな緊張の中で展示をし、トークイベントでお話しをさせて頂く機会を得たのですが、イベントの後、聞いてくださった方と作品のテーマでもあった「対話」についてお話しすることが出来たのが大変よかった。「対話」というのは、対話は字だけ見れば向かい合って話す、なのですが、何か一歩歩み寄ろうとする態度も現れているように考えていて、その難しさであったり、願いに近いものについて、初めましての人と話すことができました。逆に友人同士とかだと照れ臭くてなかなか出来ない話が、立場だとか背景だとかをすっとばして話すことが出来るのって作品を介しての場だからこそだと思いますし、なぜ発表をするのかといえば、この時間があるからなのでしょう。それは対面で話すだけではなく、テキストでもらうにしろ、私が死んでから誰かが語るにしろ。作品(や、テーマに対して)考える「私」は、これまで生きてきた人生をもつ「私」であるのですが、一旦保留にして、何者でもない「私」と「あなた」から作品をきっかけに「了承を繰り返し続ける」対話を行う場所が、作品とそれを取り巻く環境(鑑賞)なのだと改めて感じました。
話を飛ばして、5/3に一緒に展示※2とイベントを見に行きましたね。展示も素晴らしかったのですが、今回考えたいのはトークイベントでの気付きについてです。
このトークでは作品のモチーフの一つである「俊徳丸伝説」を取り上げ、アーティストの方、郷土史家の方々や地元に住む方々が色んなお話しをしてくださいました。この俊徳丸伝説というお話し、ざっと簡単に説明すれば、俊徳丸という少年が継母の呪いであったり、父からの勘当が理由で失明し病にかかってよろよろと地元である高安という場所から四天王寺まで歩き、そこで、恋人の乙姫や父に再会するというものです。これは謡曲や説経節、時代が下って三島由紀夫や折口信夫、寺山修司によって様々なバリエーションが生まれています。私はトークの予習として三島の『近代能楽集』と折口信夫の『身毒丸』、謡曲・説経節、寺山修司の『身毒丸』のあらすじに目を通しましたが、共通点は主人公が受ける「不条理な呪い」と「主人公の弱さ(弱い立場)」くらいで、こんなにも変調を許す物語もなかなかないな、という印象でした。
さて、トークの中で興味深かったのは、語る側と語られる側の背景や関係性によって物語が変化しうるということです。この伝説が琵琶法師によって熊本でも語られている一方で、地元とも言える高安では然程語られているわけではない。その理由が、戦後、夫を亡くした寡婦が別の家に嫁ぐこと=継母が多くいた土地で「継子いじめ」が語られるストーリーが好まれなかったからではないか、という指摘がありました。また一方で、イベントでは新作「俊徳丸」の琵琶演奏があったのですが、作者の琵琶奏者の方が、本来の説経節では最後の方で殺される幼い義理の弟が、あまりにも理不尽すぎたので登場させなかった、とお話ししていました。もともと説経節では、継母が自身の子供を継がせたいが故に継子を呪うという話なので、主人公が幸せになるためには、家督を争う義理の弟が殺される理由が当時はあったのでしょう。しかし家督の比重が軽くなった現代において、ただただ理不尽です。
他にも琵琶法師(盲目の職能集団としての)は、求められれば5、6時間語るときもあれば、先方の要望に合わせた時間で語ったといった話もありましたが、口承文学において聞き手側が何者で、そこがどのような場所であるのかということが語られるものに影響を与えるのだということに改めて気付かされた時間でした。というよりも、思い出したと言った方が正しいでしょうか。
東北にいた時、作品を発表する際には大体地元の方々、コミュニティを想定していました。鑑賞者に媚びへつらっていたのかい…と思われると癪なので弁明させて欲しいのですが笑、東日本大震災直後の東北で美術を学んでいた私にとって、ある一時期、確かに「描いていいもの」と「描いてはいけないもの」があったし、何かを描くことは、誰かを傷つけるかもしれず、それをわかった上で表現をしなければならないのか、ということを深く内省する必要があった。以前、東北の尊敬する美術館にポートフォリオを持って行きましたが、私の表現は、まだその場所では受け入れることはできないと言われたこともあります。鑑賞者をやみくもに想定することで表現が狭まってはいけないとは思いますが(昨今規制について取り沙汰されることが増えてますが…)今生きている人間として、自分の生活をしている場所で発表することの力学は無視することはできない。それは、この間のミーティングで崎田さんが気になっていると言っていた「土地の記憶」という話とも繋がるのかもしれません。
なんかつらつらと2つのトークイベントで考えたことを書いて見ましたが、考えれば考えるほど、大して繋がりがある話でもないような気もしてきたので、一旦ここで手放します。笑。
崎田さんは俳優として舞台に立つ時、観客が目の前にいることについて重視していますが、その時の観客ってどんな存在なのでしょうか。または今気になっているという「土地の記憶」って作品においてどんなものだと思いますか?どえらい待たせた私が言うことではないですが、お返事お待ちしております。
※1 京都日本画新展 美術館「えき」KYOTO 2024年2月2日(金)~2024年2月11日(日)
※2 「中野裕介/パラモデル展 よろぼう少年、かなたの道をゆく▷▷▷《俊徳丸伝説》であそぶ」東大阪市民美術センター 2024年4月25日(木)~5月12日(日)
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