往復書簡——崎田3
石原葉さま
ジメっとした梅雨も明け、京都では祇園祭も終わり、夏到来ですね。蝉の声で目が覚めます。
かなり間が空いてしまいましたが、お手紙ありがとうございます。京都での初めての展示について、日本画に対する緊張感や窮屈さがある、ということでしたが、その緊張感のようなもの、葉さんの展示や大学関係の展覧会に足を運ぶたび、なんとなくですが感じておりました。なんだか独特の雰囲気がありますよね。それはもしかしたら、私が演劇の現場に感じる窮屈さや自分がここにいていいのだろうかと思う感覚と似ているのかもしれないと思いました。
展示を見た後の「対話」の話も面白いですね。展示会場にいる作家は、作品と対峙したり、テーマについて考えたりする作家とはまた違う自分なのですね。個人的には、美術館や劇場に入ったときの感覚に近いのかなと。鑑賞者と、そういう誰でもない私になって対話できるというのは羨ましいと思いました。俳優は肉体を介する以上、自分と作品を離して考えることはなかなか難しいです。もちろん限りなく客観的につくっていく俳優さんもいますし、作品自体がそういう演技や居方を求められるものもあります。でも、これは完全に人それぞれの好みや志向するものの違いだとは思いますが、私は役と俳優本人が完全に切り離されず、入り混じっているお芝居の方が好きで、信じられるなと思うのです。演劇も終演後、お客さんと話すことはありますが、自分が作品を切り離して観られていない分、対等な対話は難しいなとは思います。一緒に観劇に行って、その後話すということはできますが、全く知らない人と、これまで生きてきた自分を取っ払って話すということができる機会は演劇の場合なかなかないように思います。だから羨ましい。
東北にいたときの、「描いていいものと」「描いてはいけないもの」の話。今生きている人間として、今生活している土地を無視することができない、というのはとてもその通りだなと思います。昔、先輩に「誰に観てもらうのかちゃんと想定をして作品を作りなさい」と言われたことを思い出しました。その時は、どういうことなのかよくわかっていませんでしたが、今は当時より自分事として考えることができるようになったと思います。自分が自分で居られる場所というものはあると思うし、自分を鼓舞させる人や環境もあると思う。自分がどうなりたいのか、自分が誰と作りたいのか、京都に来てからより考えるようになりました。そして自分のやったことが、誰かの中に、もしくは会場内に小さな、でも確かな竜巻を起こし、それが大きなムーブメントになっていってほしい、という願望が自分にはあるんだと改めて思いました。そういう意味で、ムーブメントを起こす仲間という意味では観客も同じようなテンションであってほしい。そういう心持ちでこれまで自分がいる場所や人を決めてきたなと思っています。これまでは漠然としていたものでも、若さと勢いでなんとかなったものもあるし、漠然としていたからどうにもならなかったものもたくさんあります。だから最近はとにかく具体的に言葉にする、行動することをやっていきたいと思っています。あとはもう少しシンプルに、ストレートに、素直に自分のやりたいことにまっすぐ進みたいと考えています。
「土地の記憶」の話。私がミーティングで話していたことは、地域芸術祭を訪れたときに、自分が外部者であったときの疎外感、作品になかなか入っていけない感覚についてでした。キャプションを読めば、作家の意図や制作過程がわかり、一応頭では理解することができるのですが、作品そのものに強く惹きつけられたり、その会場や土地を飲み込んでしまうくらいのエネルギーのある作品にあまり出会ったことがありません。
作家が地元のアーティストの場合、そうでない場合、そして鑑賞者も同様に地元の人かそうでないかで作品への対峙の仕方や受け取り方は変わってくると思います。
それに、記憶というものが、とてもプライベートなものですし、取り留めがなく曖昧なものですよね。何か一つの出来事に対して、例えば「家族でお花見をした」ことに対して、事実としては一つ、でも記憶していること、感情、風景、言葉、などなどは家族ひとりひとり違うものです。そもそも場を共有していても、その場で見ているもの、受け取っているもの自体がそれぞれ異なりますよね。最近私はそのそれぞれ違う、受けとったもののことを、事実に対して「真実」と呼んでいます。
では、作品にするときにはどうしたらいいのでしょうか。色々なアプローチの仕方があると思うし、今ゲッコーパレードでもまさにそんなことを話している最中ですけど。ある事実を、もしくはその事実を受けて作られた誰かの個人的な記憶/その人にとっての真実を、作品にするには……。ミーティングでも何度か話しましたが、太宰治の『女の決闘』を最近読んだのですが、私はこれに一つヒントが潜んでいるような気がしています。ある作家の書いた小説を、太宰が「ここの描写の勢いは素晴らしい」とか「こうしたらもっと面白くなる」とか言って太宰風に書き直していくという体裁の作品なのですが、実は「真実」という言葉もこの作品の中に出てきます。内容は長くなってしまうので割愛しますが、端的に言うと、太宰の書き直しでやっていることは、ある素材や対象物としての事実を元に、どう生々しく読者に感じさせるかということ。私はそこに、太宰の読者をエンターテインしようとする心意気というか、ユーモアのようなものを感じました。
もう一つ、私がよかったと感じた地域芸術祭の作品で、奥能登国際芸術祭で観たさわひらきさんの展示があります。これは、元公民館の建物全体で、少しずつ時間をずらして、部屋ごとに趣向の違うインスタレーションが展開されるというものでした。私がいいと思ったのは、家の妖精やまっくろくろすけのような、私たちが家というものにもしかしたらいるのかもしれないと感じている存在を作品にしていたことで、現実と空想が一瞬にしてシームレスになったこと。とてもわかりやすい、そしてきっと誰もが子どもの頃に(もしかしたら大人になっても)空想した、いるかもしれない、もしくはいたらいいのにと思っているものをモチーフにしていること。そして少しずつ時間をずらして、何かいるかも、実は夢かもというような感覚になるインスタレーションが部屋部屋で起こることで、建物全体が生きているような感覚になり、そういうダイナミックさもとてもよかったです。誰もがアプローチしやすい敷居の低さ、そしてそれを再現しようとする作家の遊び心やユーモアに惹かれたのだと思います。
最近そういう、自分と作品や観客との距離感、何か一つの事実や条件から作品を立ち上げること、それをメンバーや観客とわかるポイントをつくるにはどうすればいいのか、などについて考えています。
もう一つの質問「舞台に立つときの観客の存在とは」について。観客とは、日常次元とは違う次元でのやりあいをしていると思っています。例えば、劇場のような非日常空間でなく、野外とか、家とか身近な場所であっても、そういう抽象的な次元に連れていきたいという、これは願望かもしれません。でも、俳優は必ず具体的な肉体を引き連れて舞台上に立っています。私は、その具体的な肉体を通して抽象的な状態になれるということが俳優の一番面白いところだと思っています。ゲッコーパレード 劇場Ⅱで上演した『少女仮面』で春日野が探していた「肉体」というのはそういう状態のことだというのは、演じたことで感覚的に得たものです。そして、観客は敵であり、同志でもある。以前は完全に敵だと思っていたので、毎回戦いだ!と思っていました。そうすると必然的に緊張感が出ますし、恐怖や嫌悪などマイナスな感情の対象になります。それはそのまま私の他者に対する恐れだったのだと思います。余裕がなく、真剣に真正面からぶつかって、多分相手もしんどいけど、これしかできないんだ!という感じ。自分の存在意義を必死に提示しようとしていたのかもしれません。今はもう少し肩の力を抜いて、信頼し合って、距離感近い感じでいきたいなと思っています。願望です笑。それこそ余裕とかユーモアを持つという話かもしれません。信頼関係を築くという意味では同じ場所や同じ人とやり続けるという方法があるかもしれません。創作メンバーにしてもお客さんにしても、もう少し深く、関わりたいという欲求があります。お客さんとも一緒につくっているという意識があるので、ここの境目を取っ払うということは、ゲッコーパレードでもやってきたことだと思いますが、これからも考え続けたいと思います。
あと観客は私自身だとも思っています。私の身体や感情が伝播するという瞬間的な意味でもそうですし、今のゲッコーパレードや崎田に何か惹かれるものがあるから観にきてくれていると考えると、生きている今この時期に何か共鳴するようなものやエネルギーを持っている人たちが集まってきているのではないかとも思います。俳優としては、会場で、身体的に、感覚的にビビッときてもらえるのが一番嬉しいことですし、何か共鳴するエネルギーが、さっきも書いたように大きな広がりになっていくことを望みます。いろいろ書きましたが、きっとこれからも観客の存在というのは変化していくのではないかと思います。
前回の葉さんの手紙で、東北にいたときに鑑賞者にを想定しなければならなかった、とありましたが、葉さんは自分の制作をするときに、「どこで制作をするか」ということはどのくらい大事にしていますか。以前葉さんに話した、画家の小林正人の言葉を思い出しました。「発表する場所は考えないといけないけど、制作する場所は自分が自分でいられる場所でなきゃ嘘じゃないか」私は本人の真っ直ぐさと共に、この言葉にとてもグッときました。それから「自分はどうなのだ」と考え続けているのですが、葉さんの感覚、知りたいです。
たまには軽やかにポンポンとキャッチボールしたいと思いつつも、またもや長くなってしまいました……。
お返事お待ちしています。
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