往復書簡——崎田4
葉さん
前回のお手紙からほぼ1年越しとなってしまいました……。お返事とても遅くなってしまいごめんなさい!その間、ゲッコーパレードでは岡山での『バイオマス・マクベス』の上演があったり、葉さん発信の「家企画」が進行していたり、葉さんは京都でグループ展や個展も行ったりと、お互いにいろいろな変化があったと思います。仕切り直して、現在までひとっ飛びしてしまおうか、とも考えたのですが、なんだか葉さんのお手紙に返答していないのはやっぱりよくないなと思い、ひとまず前のお手紙にお返事を書きたいと思います。
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自分が自分でいられるというのはどういうことなのか。確かにそうですね。葉さんのいうように対「誰か」の時に自分というものが現れて、一人きりになるとぶれてしまうというのはなるほどと思いました。私の感覚としては逆で、集団の中にいればいるほど、自分というものを見失ってしまうという感覚があります。
それはメンバーにもよりますし、それぞれとの関係性にもよりますし、自分の性格にもよるし、本当にいろんな条件によってその感覚は違うと思いますが、演劇は集団創作が前提であるため、一人になることの方が難しい傾向にあると思います。そこはおそらく絵画制作とは逆なのでしょうね。演劇は自分のやり方を確立する前に他者と創作をすることが多いので、これが自分の考えなのか、他者や集団としての考えなのか混同してしまったり、パワーバランスの中で上手く自分を主張できなかったり、それによって集団全体の雰囲気が前向きになれなかったり、様々な問題が起こるのだと思います。
だから以前も書簡に書いたと思いますが、葉さんたちがゲッコーパレードに入ってきた衝撃はとても大きかったです。己を持っている人(0から1を生みだせる人という言い方をしていたと思います)が加わったことで、みんなで一つのものを作るのではなく、まずそれぞれが独立していて、それぞれが力を発揮することで作品になっていくのだということが、明確になったと私は思っています。
制作する場所について、お返事ありがとうございます。他者と関わるのが苦手で、作品を通して他者に触れられた感覚があるからアートを続けたいという葉さんの言葉、私も同じような感覚があります。私も演劇に魅力を感じたのは、舞台に立っているときに、または舞台に立っている人を見たときに、はっきりと、他者と繋がれていると感じることができるからです。
制作はいつも自分のパーソナルな心の動きからはじまる、というのもなるほど。私も最近、「小さな物語から大きな物語へ」ということを考えています。戦争、震災、コロナなど大きな共通体験も掘り下げていけばそれぞれ個人的に体験していることは違いますよね。だからいくら同じ体験をしたよね、といっても無理矢理まとめたり感情を押し付けたりするのは乱暴だから、そうではない一つになり方があるような気がしています。さっきの集団のあり方ではないですが、一人一人が独立している中で符合するような作品が作れるのではないか、と。これが、大げさにいうと、今の時代に対する応答になりうるのではないかと思っています。
ただこれに関係することとして最近思う違和感があって、多様性が叫ばれ、いろんな個性や価値観が少しずつでも受け入れられるようになってきたのはいいことだと思うのですが、自分の何も差し出さずに、(誤解を恐れずに言えば楽をして)自然体でいることこそがよい創造につながる、と考えてしまってはいけないのではないかということです。もちろん経験を積んでそういう境地に達し、光を放っているアーティストの方はいらっしゃると思います。ただ、表現者として真に独立して存在するためには、やはり自分の身を削るというリスクを伴わなければ、観る人にとっても心を揺さぶるような作品にはなり得ないのではないかと私はどうしても思ってしまう。
少し偏った、古い主張なのかもしれませんし、もう少し年をとったら違う境地に辿り着くのかもしれませんが、何度考えてみても、やっぱり作品はその作家の対世界や対他者との摩擦によって生まれるものではないかと思います。だからそれが正であっても負であっても、受け取る人に刺さらなければ、創造する意味は果たしてあるのでしょうか。
少し大仰な言い方をしてしまいましたが、「さて、演劇を作るぞ、何をしよう」と思ったときに、私は忘れたくないと思う感覚の一つで、ここ1年くらいずっと考え続けています。先ほどの「一人一人が独立している中で符合するような作品」とは正反対のことを言っているかもしれません。でも両立する作品こそが、「今」の作品と言えるのではないかという予感もあります。
さて、話を変えて、山伏修行についてお答えします。これももう1年前になってしまったのですが、昨年の8月、2泊3日で山伏修行に行ってきました。山形県鶴岡市にある大聖坊という宿坊に滞在し、星野文紘先達について出羽三山を巡る修行でした。1日目に湯殿山にて滝行、2日目に月山を踏みしめ、3日目に羽黒山に登りました。修行で面白かった経験はたくさんあるのですが、一つ挙げるとするならば、やはり「おたち」を経験できたことです。
おたちとは、簡単に言うと号令係です。基本的に集団は先達を先頭に列を組んで移動するのですが、おたちは先達のすぐ後ろについて、出発の時に吹かれるホラ貝の後に「おたーちー」と号令ををかけ、後に続く人たちは「うけたもう」と応えて行が始まります。これは修行に初めて参加する最年少の女性が務めるそうで、たまたま私がその役を申しつかったというわけなのですが、これがとてもよい経験でした。
何がよかったかというと、まず先達のすぐ後ろを歩くことができたということ。修行を通して感じたのは、身体を通して何かや誰かを受けとるということの大切さです。行の間はお互いことばを交わしてはいけません。ひたすら自分と対話しながら、自分の足で大地を踏みしめて、五感で山を感じとって、ただただ歩いたり、座禅を組んだり、祈ったりします。なので、何も言わないけれど先達の背中を見て歩くという経験は、すぐに何かがわかるといった経験ではありませんが、3日間を通して先達という人が、隣を歩く人の呼吸が、自分の中に入ってくる。それは私にとっては言葉で説明されるよりも、より納得感のある人や物への触れ方でした。出羽三山も修行も初めてだった私はとにかく先達の歩き方を真似してついて行きました。歩幅、杖のつき方、足の出し方…。それでいて一歩一歩は私自身の意思で踏み出している(踏み出さなければいけない、これから先も)という強い思いも同時に湧き上がってきて、とても不思議な心持ちになりました。
もう一つよかったことは、あまり声を出せない行の中で、号令の時に思い切り大声で発声できたことです。それは単純に気持ちがいいということもありますし、それによってみんなが応えてくれて物事が動き出すという感覚は、なんとなく私が演劇を始めたときに感じた、他者に自分というものが届いた高揚感や、自分はここに存在するのだという安心感を思い出しました。
なんでもネット上で済ませられる世の中、休憩時間や電車の中でスマホを眺めることが当たり前になった今、そして仕事や日常生活では何かと頭で考えることが多い毎日から一瞬抜け出して、わざわざ山奥に出向いて身体を使って何かを感じ取ろうとするという行為は、どことなく演劇を観に行くことに近いように思いましたし、なぜ私が演劇というものにこだわっているのかも少しわかったような気もしました。
あとは印象的だったことを断片的に。山伏修行は生まれ変わりの行と呼ばれ、日常から離れ、山に抱かれながら修行に打ち込み、最後に焚かれた火の上を「オギャー」といって飛び越え、文字通り生まれ直して終わります。参加者の中には人生の悩みや苦しい場面をこの修行を機に乗り越えたという方も結構いらっしゃったみたいです。私はというと、修行の最後の方、羽黒山を下山する途中の小休止で木が揺れているのをぼーっと見ていて、ふと「これまでと同じことをしていてもいけないのだな」と思いました。何か新しいチャレンジをしなければ、と心に決めて山を下ったのでした。
ちなみに一番辛かったのは「だんまり」というご飯の時間です。これも修行の一つで、ご飯と味噌汁と漬物を30秒くらいで掻きこまなければいけません。味わっている間もなく、とにかく噛まずにご飯を味噌汁で流し込みます。特に朝4時前に起きてすぐのだんまりは胃がびっくりしてなかなか飲み込めませんでした。
先達との出会えたのもよい経験でした。先達は喋るときに文語体で自分にもその話を言い聞かせるように話す方で、この人の言葉には嘘がないということがよくわかる方でした。「修行なんて未だに俺もよくわからない」「わかってることをやっても仕方ないから、わからないことをやれ」ということばは、特によく覚えていて、演劇でも全くその通りだと思いました。
他にもいろいろ考えたことはあるのですが、ひとまずこのくらいにしておこうと思います。私もずっと山伏修行に行きたいと頭の片隅にあったのですが、ふと今年かなと思い立って参加しました。今思うと、何となく自分が変わろうとしているときに導かれていったのかもなと思うので、葉さんも今かな、と思ったときにぜひ参加してみてください。
長くなってしまいましたが、最後に葉さんに質問。先日京都での個展を観に行きました。その少し前から、新しいシリーズの制作を始めていますよね。以前とかなりモチーフやテーマが変わったと思うのですが、今葉さんが考え、取り組んでいることについて教えていただきたいです。また、個展を終えてどうでしたか。
お返事お待ちしております。
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