ゲッコーパレードメンバーが語る『デス・ストランディング』/石原葉・林純平

みなさんこんにちは、林です。今回は私、林純平と美術家の石原葉さんによるゲームについての対談を掲載します。その題材は『デス・ストランディング』。
まずは本作の概要を簡単にご説明します。
『デス・ストランディング』は2019年に発売されたビデオゲーム。本作は「デス・ストランディング」と呼ばれる現象によって壊滅的被害を受けた北米大陸を舞台に、主人公・サム(演:ノーマン・リーダス)が「配達」という行為を通して世界を繋ぎ直すゲームです。配達の過程で遭遇する地形を踏破していくプレイ感覚や、インターネットを通じた「緩い繋がり」を感じさせるシステム、そして断絶と接続をテーマとした物語が話題を呼びました。この記事の公開直前となる今年6月26日には、続編『デス・ストランディング 2』がリリースされようとしています。
なぜ本作のことを語るのかといえば、2020年~2021年の同時期にゲッコーパレードに加入したふたりの最初の会話のトピックが、まさしくこの『デス・ストランディング』だったからです。その後、本作のことを語りあうことはほとんどありませんでしたが、昨年末に私がようやく本作をクリアしたことや、石原さんもプレイを開始したことを耳にし、当時本作について話していたことが思い出されました。ちょうどいま続編が出るという区切りの地点、発売から5年を経た『デス・ストランディング』と、その間に私たちを取り巻く状況がどう変わったのかを語っていきます。
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林:『デス・ストランディング』は結構前から石原さん興味持ってるなって感じがあったんですけど、最初はどうして興味を持ったんですか?
石原:コロナ禍の時に「郵送する演劇」をやったじゃないですか。その時に関わってくれた同期の柏倉風馬くんという人がいるんですけど、彼が小島監督の作品が好きなんですよ。それで一度『メタルギア』がシリーズごとに視点が変わっていくっていう話を延々されたことがあって。それがどういう意味合いを持つのか、みたいなことを1時間以上かけて。
林:それはめちゃくちゃすごいですね。
石原:そういう「視点が変わる」みたいなことって自分も好きだから、小島監督の作品面白そうだなってなって。まだ積ん読になってるけど『メタルギア』のノベライズとかも買ったんですよ。
林:伊藤計劃さんのですよね。
石原:そう、彼はもう亡くなっちゃったけど、他の作品も読んでて。「伊藤計劃書いてるのかよ!」みたいな感じで。それで自分も小説が好きだし、円城塔とかこの辺りとどうも近しいところに小島監督がいるぞ、と。
林:確かにそのイメージはありますね。
石原:そうしたら、今度独立して『デス・ストランディング』というゲームが今度出るんだよ、という話を柏倉君から聞いて。私が予備校時代にハマって読んでた安部公房の短編から引用された文章が冒頭にあったり、「分断」「繋げる」ってキーワードとか、「戦う」という能動的な世界の救い方とはちょっと違う、歩いて繋げていくというあり方が面白いなっていう風に興味を持って。
林:自分と石原さんがゲッコーパレードのメンバーとして初めて知り合ったのが2020年でしたが、その少し前に『デス・ストランディング』はリリースされてるんですよね。ちょうどコロナ禍に入る一歩手前ぐらいの時に。たしか、YouTubeの「ゲームさんぽ」という動画で、『デススト』と歩荷の話をオンラインミーティングでしていて。それで当時、石原さんは『デス・ストランディング』に興味があるのかな、ってなんとなく思った印象があります。
石原:でも『デススト』は難しいぞ、と周りから言われ、PlayStatioin4も持ってなかったので、一時期は柏倉くんに配信して見せてもらってました。それで去年MAC版(2024年1月)が出て、対応PCに買い替えた秋〜冬くらいにやっと買ったっていう感じです。
林:今はどのくらい進んでるんですか?
石原:ママーの双子のところですね(エピソード5)。いまはちょっと制作が入ってきてるっていう感じでやれないんですが、やれる時にコツコツ進めて。一時期、毎日1時間くらいやって、それで結構進んで。また急にやれなくなって…みたいな、繰り返してる感じですね。
林:実は『デス・ストランディング』ってそういうコツコツやるっていうのがすごく向いているゲームだと思ってて。というのは、基本的に他のオープンワールドゲームって、たくさんの要素があってそこをどれだけ寄り道するかみたいなところで作られてると思うんですよね。テーマパーク的というか。
でも、『デス・ストランディング』って、サイドミッションはあるんですけど基本的にやることがほぼ決まっている。ただ運ぶだけで。お話を進めるにも基本的にそれしかやらないので。1日1ミッションやるって決めるとか。たとえば、どこかに1回帰れみたいなミッションがあっても途中の中継地点で休めるじゃないですか。あれがあるから、じゃあ今日はここまでにしようかなってやめられる。そういうのができるから、1日1時間みたいなペースでやるのはすごく向いてるゲームだなって自分もやってて思いましたね。
石原:やめ時がちょうど1時間か1時間半ぐらいでちょうど休める場所。
林:そうなんです。やめ時が来るっていうのがすごくいいところなんですよね。オープンワールドのゲームってどこまでもやれちゃうから、あんまりそうはならないんですけど。

石原:確かに。お散歩みたいなもの。
林:ビデオゲームってやっぱり観光みたいなところが結構強いと思うんですけど、『デス・ストランディング』はかなりそこが薄い。いや、実はあるんですけど。でも他のゲームではそこが目的化してるというか、主目的に作られてると思うんです。でも『デススト』は仕事の途中でたまたま見えたっている感じで、どこかに移動する間にたまたま見えた海の景色がなんか綺麗だったなとか、朝日が見えたとか、夜の工場地帯が綺麗だったなとか、そういう付随的なところがあるのかなって思いますね。
石原:そこが自分は結構好きだなっていうか。場所ごとにグラデーションがあるとかカラーは違うんだけど、他のオープンワールドだとこれをするために目的地に行くぞ、ここに行くぞ、みたいな感じで風景が変わるっていう感じだけど、なんかもっと散歩ですよね。
林:そうですね。たまたま感を上手く演出してるというか、できてるゲーム。本当にたまたまなのではなくて、ちょっと演出してる。けど、たまたま感がすごく感じられるような作り。
石原:最近やった、アジトみたいなところに、死んだ仲間の遺体を取りに行ってそれを焼却場に持っていくっていうミッション。私、ゲームそんなに上手くないから、とにかく敵から逃げたいわけ。そういう風にして山際のところをずっと歩いていくと、結構雪山と接してて。すごく良かったなぁ。崖のところの、この雪の深さ、なんか経験あるみたいな。スキー場とか、東北のあの冬だ、みたいな。そういうのがちらっと経験できたときに。
これまでのゲームだと雪山に何かしに行ってたんだけど、そうじゃなくて。「ここ通ると雪山なんだ」とか「思ったより近かったな」とかそういう風に見えてたんだみたいなところもあったり。そういうのいいな、楽しいなって思いながら。でも装備は全然雪山用じゃないからサムはすごく寒そう。多分あるよね、雪山用の装備。
林:ありますね。滑りづらくなるやつとか、カイロみたいなやつとかあって。
石原:いつゲットできるんだろうって思いながら「ごめんね、サム」って。
林:ただ歩いてるだけのドラマみたいなことがあると言うか。サムがそこを歩いているからっていうこともあるし、実生活でも歩いている自分を客観視してる時がたまにある。たとえば終電とか逃しちゃって歩いて帰んなくちゃいけない時に、ひとりで歩きながら「なんでこんな目に」みたいなことも思いつつ、自分を客観視して歩いている。そんな感じがこのゲームにはあるなという気がしますね。このゲームってただ耐えてるみたいな部分が結構多くて。普通そういう地味なところっていうのはなかなか注目されないんですけど。
石原:林さんのその感覚に繋がるかどうかはわからないんですけど、山形の上山に住んでいた時にクアオルト(健康保養地)っていうのがあって。ちょっと高低差のある所を歩いて心拍数を上下させて、それで健康になる道っていうのがあるんですよ。そこには花咲山っていう山を通っていくルートがあるんです。往復40分くらいの全然ちっちゃい山なんですけど、冬に暇があれば登って。でも山形の冬だから雪がすごく積もってて、そこをザクザク、ザクザクただ登って降りてくると、歩きづらいんですよ足下が。
自分でも「何やってんだろう」みたいなところがあったりするんだけど、さっき言ってた客観的な視点になるみたいな、あんまり物を考えられない感じもあるから、もうひたすら歩くっていう。道に体を委ねるというか。行為としては没入してるんだけど、視点はちょっと俯瞰で見てるような感じの時があって。『デススト』も重い荷物背負って歩きづらいなって思いながら、坂道下ってたりするとちょっとスピード出たりするじゃないですか。それが結構似てるなって感じがすごくしていて。土地や地面に身を委ねて、あんまり他に物を考えないなんでもない時間みたいなのがある。私は『デススト』の設定が好きでやり始めたんだけど、プレイとしては結構その感覚が好きだったりするなぁと。

林:そうですね、私もそういう感覚に近いかなって思います。いま言ってくれたように設定から惹かれてプレイしてみたら結構良かったっていう部分があったかと思うんですが、『メタルギア』にしろ小島監督の作品ってかなりムービーシーンで語らせると言われてるんですよね。でもその特徴が意見の分かれる点で。その上で『デススト』は、いま言ったような体験みたいな部分がかなり強くありつつ、でもムービーシーンは相変わらずいつもの小島監督って感じですごく長いんですよね。そういうところもあって、アンバランスなゲームでもあるっていう気がしますね。
石原:確かに。自分はゲームがそんなに得意じゃないから逆にムービーでストーリーをやってくれちゃったらそれはそれで助かるみたいな部分がなきにしもあらず。多分ゲームできる人からすると、そこのやり取りとかもっとコントロールしたいんだろうなっていうのがあるんだろうな。
林:比較的批判されがちなところではありますね、ムービーが長いっていうのは。つまり「ゲームをやりに来たんだからゲームやらせろ」っていう意見が出てくる。それは分からんでもないというか。この「サム」っていう人物が運び屋をするという体験とか、自分自身「サム」的な何かだなっていう風に思うとかは、多分ムービーだけではおそらく難しい。やっぱり客観的にサムのことを見ることはできるけど、自分のなかに「サム」を見出すことっていうのは、かなり難しくなるなっていう気がしますね。
石原:個人的にわかりやすいのが『どうぶつの森』で。たくさん虫とか魚を捕まえられるじゃないですか。一時期『どうぶつの森』の中で虫取りにハマってたら、、仕事に行くときに虫がいると捕まえたくなっちゃうわけ。『どうぶつの森』では実際の自分がコレクトしてるわけじゃないし、アバターに自己投影や共感をしてるつもりなんて全然なかったんだけど、行為をひたすらしていたらそれが現実世界にも移ってて。普段から生き物が好きだからすぐ捕まえたくなっちゃうタイプではあるけど、もっと捕まえなきゃ、みたいなよりアグレッシブな感情になるみたいなことを『どうぶつの森』で体験してて。
『デススト』の場合は荷物を運んでて大変なことをやらされてるな、みたいな感じっていうのは自分にはなくて。それよりも、ネットワークに繋げると他のプレイヤーが作ってくれたものがあるじゃないですか。「ありがとう、梯子」みたいな。現実でもああいうものに気付くっていうか、そういうものが好ましいものに感じるっていうことが増えたなって。
サムも初めは他人に接触したくないとか、やりたくない仕事やってたけど、届けていくとみんな感謝してくれて、全然知らなかった人からメール貰ったりして仲良くなってくるわけじゃないですか。今日誰か1人と仲良くなれた、嬉しいみたいな感覚は自分も実社会で経験するし、そういうのがリンクしてくると、一見寡黙なサムだけど「お前も嬉しいんだろ、わかるぜ」みたいな、そういうのはありますよね。
もしこれが本当にムービーだったら大変ですね。仕事めんどくさいって思ってたのに、巻き込まれちゃったんだろうな、とか言葉から推測する。それで巻き込まれてたらどんどん真相や世界像がわかって、ヒーローになっていくんだなっていうものだけど。サムの言葉やムービーで語られてない、ちょっとずつ人に興味を持つとか、残したものが愛おしいと思うとか、自然を美しいって思うみたいな心情の盛り上がりみたいなものは配達する過程が補完してくれる部分で。サムの感情の推測が、自分の実生活に紐づいてるところはあるなって思いました。
林:やっぱり他人に「ありがとう」って言われたいし、自分もやりたい。作品制作時期からして意識してなかったとは言われてますけど、ちょうどコロナ禍と重なってましたよね。そのなかでそれこそ配達員とか、いわゆるエッセンシャルワーカーみたいなものへの関心が高まったわけですけど、そういうものに対するありがたさみたいなことがね。実際、普段あんまり意識しないと思うんですけど、インフラとかも当たり前に使ってるけどそこに関わってる、いろんな人の力ってめちゃくちゃあるはずで。サムみたいな人たちがいっぱいいて、そういう人たちがいるから成り立ってるみたいなこともあるし。
いまサムがたまたまこのプライベートルームで休んでますけど、ここでサムがシャワーとかトイレとか使えてたりするのも、誰かがここに建ててくれてたからっていうのもあるし。道にあるものをとかに対して「ありがとう」みたいなことを石原さんが感じたりするのもそうですよね。たとえば車を運転してる時、道を譲ってくれた人にちょっと感じるような、深い感謝というよりちょっとした謝意みたいな。このゲームをやっているとそういうものをすごく感じる。

石原:そういう感謝をするということだったり、エッセンシャルワーカーのような普通に生活していると見落としてしまいがちな仕事を可視化するみたいなこと。『デススト』ってネットワークに接続されることで、他のプレイヤーが作ってくれた物が反映されるけど、もしこれが無くてただサムが物を運んでますっていうゲームだけだったら、やっぱり見えてない「誰か」が作ってくれた何かみたいな部分ってなかなか思い当たらないんだと思うんですよ。
それはそれで配達人がメインのストーリーというか、映画みたいな感じで受け取っちゃって、特別な人の何かみたいな感じになりすぎてしまう。そう思うと、プレイヤーの残留物を使える、「いいね」って反応することができるというのを組み込むことで、見えてないものを可視化するっていうことがすごくできているなって思います。
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石原:ちょっと前ですけど、アートのほうでも2010年代にいわゆるコレクティブというのが注目されはじめて。「多様な人たちでものを作っていくやり方をコレクティブと言う」って感じの説明をゲッコーパレード向けにしてたと思うんですけど。当時すごく脚光を浴びたコレクティブたちの動きは、ちょっと荒んだ街にみんなが集まって、地元の人と何かものを作って販売したり、雇用機会にしたり……という。「アッセンブル」という団体なんですけど。そうした少し風通しを良くするっていうコレクティブが現代アートの最優秀賞を取ってということがあって。その後に「ドクメンタ」という国際アートの大きなイベントがあって、参加アーティストの多くがコレクティブになっていたんです。
そこでは、「共に生きることってどういうことだろう」ということが語られていて。街に入って、他の人たちと一緒に物や場所を作って、ちょっと風通しを良くする。そんな活動をしているようなコレクティブの人たちが集まって、共に生きるってなんだろうというようなことを考える。
そこから次に「アートとケア」が話題になりはじめて。アーティストって結構、介護施設で働いている人も多くて。絵を描く時間を取りやすいとか、土日以外の曜日に休みが欲しいと思った時に介護施設だと選択肢があるからだと思うんですけど。じゃあ死後を看取るとか、体が悪いとか、言葉の問題や精神的な疾患、認知症があるとか、それってどういうことなんだろうと。そんな人たちに触れながら、物を作っていく人たちが出てきた。そうした動きに注目したような本や雑誌の特集が出はじめたのが、ここ10年ぐらいなんですよ。
それこそコロナ禍になる前の時期は結構それが語られていて。でもコロナ禍になってそれどころじゃないみたいになって、今に至るという感じ。
長々喋っちゃったけど、「いいね」って言うとか「光を当てる」みたいな『デススト』のそのトーン、そういう視線はアートが好きな自分からしても「いまクリエイターってそういう感覚や意識を持ってるんだな」っていう感じがありました。世界を大きく変えるとか、ヒーローがバーンと出てきてどうこうじゃなくて、動きとしては弱いというか小さいことの積み重ねになってくるんだけど、そういう物が実は世の中を変えていけるかもしれない。そういうものが出てきたのがここ10~15年ぐらいなのかなって。
林:でも一方で、じゃあ逆に『デススト』が出た後のこの5年間ってものを考えた時に、いま言っていたような「ケア」とかっていう部分が結構後退してしまったんじゃないかなって、そういう風に感じます。そう、たとえばヒーローが出てきて世界を大きく変えるみたいなところも、おそらく逆転してるような気がして。だから今度『デス・ストランディング2』が、それなりに開発期間を設けてついに出てくるわけですけど、トレーラーをみた感じ結構前作とトーンが違うんですよね。
石原:ちらっとCMを見たら、「繋がらない方がいい」みたいな、そういう話みたいだなと。
林:まだそこまでお話がどうとかっていうのは細かく出てなくて。でもテーマ的な部分とか、ゲームプレイ画面やゲームの流れを見ていると、どうも『デススト2』は戦争の話になっているようなんですよね。争いの話。『デススト』にも攻撃を仕掛けてくるやつはいるし、こっちも反撃はできるけど、そこは別に主目的ではないというか、どちらかというと避けるべきことじゃないですか。ゲームとしてもそこまでメリットはないし、ストーリーも、かつて戦争があったことは重要だけど、戦争そのものではない。『デススト2』ではそうではなくなってて、戦時の話になってるんですよね。その状況で何をどう届けるのかみたいな話になってきそうなトーンをちょっと感じる。そういうのがやっぱりここ5年の、社会や世界が色々変わったところが出てくるのかなっていう気がしますね。
石原:コロナ禍で結構、人々が孤立していったわけじゃないですか。接触しちゃダメだよっていう。でも私はちょうど社会人出たての年で、出勤しなくちゃいけない仕事だったので。元々の生活が変わっちゃったんじゃなくて、ちょうど自分のライフスタイルが変わったタイミングがコロナ禍だった。だから他人と接触しないってこと自体が、自分にとって強い違和感だったかっていうとそうでもないし、友達もみんな卒業後に引越していった後だった。だからコロナ禍じゃなかったとしても他人と少し距離が空いちゃったタイミングにぶつかったみたいな感じもあって。
でも突然他人と接触できなくなってしまった職業の人たちがいるわけですよね。在宅をしなきゃいけなかったりとか。
林:単純に仕事が減った人もいたはずです。
石原:学生だとやっぱり友達がいない状態で勉強しなきゃいけないとかっていう話も聞いたりしたし。いまそれを経て、実際に学生たちと話をしてて思うのは、潔癖症になったよねっていうのはすごく思って。それはウイルスに対しての潔癖ではなくて、人との関わり合いに関してすごく潔癖。相手になるべく踏み込まないようにしようとか、それが強くなっている気がして。
たとえば戦争が起きてることに対するSNSの反応も、ものの見方の極端さとか雑味のある人と交流できなかったような、他人と触れあえなかった潔癖さがあるというか。
急に隔絶されちゃったから、繊細になりすぎてる。自覚がないままに、他に対して投げかけたりしてしまうのかなっていうのは、コロナ前後のこの5年間を見ていて思いますね。
林:自分の場合もコロナ禍で普通に出勤していたので、やっぱり自分が変わった実感はないんですけど、周りはすごく変わったなという感じがあって。でもじゃあ、自分は本当にまったく変わらなかったのかというとそんなことはなく、当然周囲の空気みたいなものに当てられているところというのは確実にありましたし、それを自分自身で強化してしまった部分も正直あると思うんですよね。
いま石原さんは学生の方の話をされてましたが、たとえばお店に入る時に必ずアルコール消毒をするっていう経験をした子供、それを一時期でも徹底した人は、多分これが一生残るんだろうなって思います。もちろんそういう行為をするのが絶対に変わらないと言いたいんじゃなくて、この経験は絶対一生残るよなって思って。
それから人の顔っていちばん人が見るところだと思うんですけど、人の顔に何かが着いてるかどうか、分かりやすくマスクをしてるかどうかで全てを判断するみたいな。老若男女関係なく、それで人を判断するっていう空気はかなりあったなって私は思います。
さっきエッセンシャルワーカーに対しての感謝みたいな部分もあったっていう風に言ったけれど、マスクをするかしないかで人か人でないか、くらいの判断が露骨にされる。完全にマーカーとして機能してるなっていうのは、対面で人と接する仕事をしているとめちゃくちゃ感じて。
石原:至る所に踏み絵があると言うか、正しく回避していかないとみたいな。
林:しかもその文脈が結構大きい、ほぼ全員に網掛けされた文脈だったので、それって「みんなそれぞれ違うよね」っていう話じゃなかったんですよね。もう誰しもに関わることだったから。だからこの『デススト』の話ってコロナ禍に重ねられることが多いけど、やっぱり直接的にそれを意識して作られたわけではなくて、分断の話なんですよね。それっておそらく当時のアメリカの状況を見て作ったんだろうなという気がするけど、たまたま別の意味でハマってしまったなって言う感じがしますね。
石原:本当に人と人が行き来できない状況だったから、いわゆるフィルターバブルだったりエコーチェンバーのような、SNS上のフォロー/フォロワーのタイムラインでしか意見に触れる機会がないから、自分に似たような考えを持った人の意見がたくさん並んでて。他の人の意見が見えてこないからすごく保守的になっちゃうんですよね。大学院の時、そういうことに興味があって、作品にするために調べていて。人間って自分と似たような考えばかり延々と見ていると、自分の答えがいちばんって思うんだなとか、物理的に距離はないんだけど、見ている視点的にはものすごく距離があるんだなとか。それをある種比喩として、物理的に距離を作るとか、接触がなかなか難しいっていうものとして、多分『デススト』は考えられていたのに、コロナ禍では本当に物理的にみんなが距離を取らなきゃいけなくなってしまった。すごく皮肉というか面白いなって思ったけど、でも林さんの言うマスクをしてるとマーカーがつけられている状態っていうのは、あんまりこの作品の中にはない。
そういうマーカーをつけられてしまうことだったり、正しく生きないといけないとか、その正しさっていうのはなんなのかってことだったりとか。もちろん医学的に数値でジャッジできるようなところもある。でもそうか、それが正しいことをやるかやらないかというよりは、正しくない人を非難できるようになったのがコロナ禍。
林:本当に正しいかどうかはともかくとして、少なくとも正しい側にいるって言うことはできて。だからやっぱり踏み絵ですよね。明らかにあいつは向こう側だとして見られてしまうから。
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石原:コロナ禍以降、すごくコンプライアンスって強化されてる印象があります。たしかにコンプライアンスを守ってほしいと思うことはいくらでもある。それはプライベートとして踏み込んでくれるなっていうことだったりとか、国や性別で差別されるべきではないっていう風に思ったりする。
林:たぶん石原さんがいくつか前に言った学生の方の話と重なる部分があるのかなって思うんですが、やっぱりコロナ禍があったからコンプライアンスが強化された部分もある一方、その前からもともとそういう潮流が強くあったんだと思います。イチかゼロかで判断してるような感じはありますね。基本的にルールみたいなものって仕方ないから出来てるものというか、調停のために出来るんだと思うんですけど。でも、調停じゃなくてもう最初からルールがあって、そのルールに従うか従わないかみたいなものになっている。確かにその都度最初からルールを作るのはコストが高いんだけど、設けたものを全部守っていくのは動きづらい。
石原:すごくわかるな。自分はもともと引っ越しが多かったりして色んな所に行くたびに、ルールが元々そこにあって合わせなきゃいけない。でもルールって見えなくて、空気でこれがルールなんだなみたいなことを考えて、察知しながら、予想しながら振舞うみたいなことを結構やってきた。だからルールってすごく興味があるジャンルです。今日話してる内容とかは、自分も大学院の時に考えてて。なぜかというと東北で震災があったとき、私は東北で大学生で。それで被災した人としてない人、何かできる力を持ってる人と持ってない人、そういうのもグラデーションがあって、全員に助成金を与えるわけにはいかないから、判断基準を1個作って、ルールを決めてお金を分配する。そういうのを見たときに、あくまで暫定的に、この場においてはこの視点から一旦ルールを決めましょうっていう風にしか言えないんだなって思った。
コロナ禍の時は医療に携わる者が判断すべき問題っていうのがあったから、そういうルールがもう少し明確に敷かれていたと思う。だけど、それ以外の部分についてはあくまで暫定的なもので、都合が合わないんだったら変えないとみんなが疲弊するだけだよねっていう。コロナ禍って、日本では久しぶりに上からルールを突き付けられた時だったと思うんですけど、もしかしたらそれでルールって1個じゃなきゃダメじゃん、っていう風になったのかなって思いますね。
林:ルールに照らして何かをするっていうのは、先に進むとか判断するためにイチゼロにしなきゃいけないので、そうなってしまうのは仕方がないことなんです。でもそれを各人が法律にあるからこうすべきだと主張したり、逆に法律にないならやってもいい、とかって言いだすと、もう本当にどうしようもないっていうか、誰もまともに暮らせない。だからコンプライアンスをしっかりしてほしいというのは自分も全然思うけれど、どうしてそれを守るのかっていうことが無くなってしまうと、コンプライアンスやルールの遵守そのものが目的化してしまう。
石原:國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』だったと思うんですけど、なんで哲学みたいなものが生まれたのかということで、暇だったから生まれたんだという話があって。狩猟民族だとずっと移動しなきゃいけないし、ここが安全か安全じゃないかに気を配らなきゃいけないから、あまりそういうことを考えていられる余裕がない。だけど、暇ができるとなんで自分たちは生きてるんだろうみたいなこととか、どうやって民を増やすかとか、そこで政治に近いことが初めて考えられるみたいな話があって。その流れだったと思うんですけど、なんでルールを決めるかというと、みんなをまとめるということだけじゃなくて、そのルールさえ守っておけばそれ以外のことは考えなくていいっていうことがある。個人のキャパシティのなかで、ここはとりあえずルールに乗っておくという風にすれば、他に自分のキャパシティを割いて広げられるわけじゃないですか。車の信号とかはまさしくそれで、運転してる時にものを考えてても、とりあえず信号のルールを守っておけば事故は起こらないわけですよね。そうやって容量を軽量化できるという風になってきたときに、それこそさっきのコンプライアンスやルールそのものが目的化するっていうのは、考えなくて済むからとりあえずルールに乗っとこうみたいな。とても省エネな行動で、それをちょっとやりすぎた果てに感情が暴発してるのはヤバいよなって。
林:記号的な解釈ってすごく強い。でもいま挙げてくれた省エネ的な行動っていうのも、もしかしたら省エネにならざるを得ないというか、個々の人たちがサボっているというよりも、サボらないといけないくらい余裕のない状況になっているんじゃないかという気がしていて。1つ1つのことを集中して考えられるような余裕とか時間がない。
だから『デス・ストランディング』の歩いてる最中に、歩くことだけを客観視している状態とか、たとえば絵をじっと見るとか、アニメーションをただ見ているとか、そういう集中に至るということが難しい。記号として見るっていうのは、あくまで情報としてしか受け取っていなくて、その次に行くためのものでしかないと思います。
石原:この間、旧加藤家住宅で公演した『先祖のまなざし』でも、演出の飯名尚人さんから「描く時間を見せたい」と言われて。私自身、公演の全体像があまりよくわかっていないまま「私が描いている時間がこの作品における一体なにを占めるんだろう」と思いながら描いていました。初めて合わせたのが公演初日で、わからないままに障子紙にひたすら眼を描いていた。だけど、たしかに先にまったく繋がらないただの行為って、すごく久しぶりにやったなっていうのは、その時感じていましたね。ふだんも絵を描いていますけど、寝る前までにこの作業をやっておこうというのがあるんですよ。それは絵具が乾かないからとか、次の工程での見え方を考えてこういう色を乗せておこうとかっていう感じで。あまり純粋に今の作業に没入する時間ってそんなにないんですけど、あの時はこの行為だけに集中していればいいから、自分が考えていること以外のことがすごく感じられた。光とか風とか音とか紙の質感とかがすごくあったなって。林さんがさっき言った、続きがあるとか先がある行為とはたしかに逆で。私は逆のことを経験したんだなってすごく思いました。
林:いや、実際その姿を私も見ていたんですが、それは本当に思ったんですよね。今のこの集中すごくいいなっていう感覚。もしかしたら、たまたま自分がその時期に読んでいた本にそういう感じのことが書いてあったから、そういう風に意識が向いたのかもしれません。だけどいま話を聞いてみて、やっている側も同じようなことを考えていたんだなってわかりました。客観的な、自分だけど自意識があまりないっていう状態。
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林:ここ、草とかいっぱい生えてるな。
石原:スギナとか生えてる。靴底草とか、そういうのばっかり生えてるんだと思ってた。ここは結構植生がリアル。葉っぱが緑だけじゃなくて先端に行くにつれて赤かったり。
林:今のゲームってこういう植生をだいぶ頑張ってますからね。そういえば以前石原さんと話してて、結構衝撃的だったことがあって。基本的にゲームでは時代が下るにつれて情報が増えて、映像がリアルに寄っていくと私が言ったら、美術とは逆だと石原さんが言っていて。そう思うとビデオゲームって技術の産物なんだなとか、どれだけ情報を詰め込むかってことなのかって。
石原:それこそ宗教画とか神話とか、ああいうすごくアカデミックな絵が尊ばれてた時っていうのは、リアルなんですよね。その時代の絵画って、結構ゲームに影響を与えてるなって思うんですけど。当時はその場にあるリアリティみたいなものが重要で、みんなが知ってる物語に見ている人を誘わなきゃいけなかった。
それ以降のだんだん抽象的になっていくような絵画っていうのは、アートの美術史的なルールみたいなもの、いわゆる文脈と言われるものを知ってる人ならわかる、みたいな感じになる。
だけど神話とか宗教画のような、臨場感が無いといけないアートっていうのは、世のあまねく人が対象だったんですよね。そういう人たちに対して、何か共通して伝えられるものがあるかと言えば、やっぱり生活に根ざしたリアリティだったんですね。
一方ゲームは、対象を狭めるわけにはいかないじゃないですか。もちろんゲームにもこの文脈分かってる人にしか刺さらないっていう言語もあると思うんですけど。でも資本を費やして大きいゲームを作ろうと思ったら、色んな人に届く写実的なリアリティっていうところになっていく。写実的なんだけど、ダイナミックな風景とか景色っていう感じになるんだろうなっていうのを改めて思いました。『デススト』はこの写実性があるから感動できる風景だけど、どうなんでしょうね。もし映像が精細じゃなかったら、ここまで気持ちが洗われるような風景になってなさそうですよね。
林:難しいところですね。一応、そういうことに近いようなことをしているものも多分あって。『風の旅ビト』(原題:『JOURNEY』)っていうゲームはちょっと近いような気もしますね。『デススト』のように運び屋ではないんですが、基本的には歩いていくだけで、周りにいるプレイヤーとも本当にゆるいコミュニケーションだけしかとれないようになっている。
石原:これ、なんか『Sky』に似てるな。
林:あ、そうです。『Sky』の開発チームです。あれも抽象的じゃないですか。
石原:なるほどたしかに抽象的だし、『Sky』も綺麗。美しいと思う風景ってなんなんですかね、解像度だけじゃない。
林:たとえば昔のゲームの映像でまったく感動できないのかっていうと、別にそんなことはないと思うんです。ただこれには私の主観がかなり入ってますし、やっぱり人間って思い出補正みたいなものは絶対あると思うんですよ。だからといって、それを否定的な意味で使う必要もないと思ってて、その景色をその時綺麗だと思っちゃったんだから仕方ないじゃんっていう風によく思っています。
石原:いま、自分がちょうど学生に言った話をちょっと思い出しましたよ。学生が先輩の作品を見てて、この作品すごく好きなんですよね、って話をしてて。それは自分のアトリエのスペースを描いたものなんですけど、デフォルメされてるんですよね。パースが狂ってるというか。その子の実力を考えたら、もっときちんと合わせることができそうなんですけど、すごくいびつなんです。でもそのいびつさが、すごく愛情があるように見えるんですよ、このスペースに。
その学生には、正確な、写実的なリアリティで写真みたいに描いちゃうと温度感が下がるとか、感情ではないものを表現したいときにはそれでいいけど、より主観を入れたエモーショナルな表現をしたいとなったらマチエールもあって…そうしたらもっと感情的なことが表現できるよね、みたいな話をしたなって今思い出して。
例えばさっきの『Sky』や『風の旅ビト』みたいなものはデフォルメされていて––歪んだデフォルメではなくて精緻なデフォルメですけど––あれによって出てくる温度感と比べたら、やっぱり『デススト』のほうが温度感としては低いというか。つまり、作家の主観が入っている世界観に引きずり込むことが狙いなのか、もう少し客観的で、徐々に行為やアクションで共感させるかとか、想像させるとか委ねるのが狙いか、とかそういうことですよね。
林:いま聞いてて思ったんですけど、この『デススト』の低い温度感というのは、この画面に映っている人が、やっぱり私たちと同じもので、人間ってしょうもないものなんだなって感じがすごくわかるっていうか。そういうのは『デススト』のこの温度感じゃないと多分できないんだろうなって気がします。
デフォルメされてることの美しさってあると思うんですよね。だからこそ見えにくくなるところもあるというか。このゲームって排泄とかがあるわけじゃないですか。そういうのってあまり描かれることはない。そちらに振り幅を大きくすると、いわゆるアートゲームやゲームアートに近づいてくるんだと思うんですが、『デススト』ではそれがあくまでゲームとして成立させるためのシステムになっている。だからやっぱりこれって普通にゲームなんですよね。

でも––いまちょうどサムが「ああ、なんてこった」って言いましたけど、なんかこの「人間ってしょうもないな、こいつらしょうがないな、俺もしょうがないしな」みたいなそういう温度感を表現するには、たぶんこのリアリティがないと難しいんだろうなという気がする。
石原:排泄とかでグレネードを作るじゃないですか。もちろんゲームを進めるためっていうのもあるけど、そこにあるもので全部賄わなきゃいけないっていうことを表現すると、やっぱりせいぜい生み出せるものってそれぐらいなんだよねって。
林:あと直接的なモチーフとしては、やっぱり配達員って家とか宿が無いので。どこか寄ったところでトイレ行ったり、シャワー行ったり。サービスエリアとかああいうところで休んだりしないといけないとか。もちろんあの大変そうな世界のなかでは、ああいうもので物資を賄わなくちゃいけないっていうのもあるだろうし。
石原:たしかにできる範囲の狭さというか。やっぱり空は飛ばないし。
林:でも『デススト2』では飛ぶかもしれないですね、もしかしたら。でも見た感じものすごく変わってるなっていう感じはないんですよね。それは実際にやってみないとわからないけど。ただ、作品のトーンは絶対に変わってる。あんなに戦場みたいなものが出てくるのはやっぱり『デススト』には無かったし、『デススト』では物を運ぶ、配達するっていうところがフィーチャーされていたことを考えると、宣伝の仕方も違うなって思うし。
石原:いま、『デススト2』の前情報がほとんど無い状態での勝手な妄想ですけど、比較的『デススト』のサムはどこに行っても他人から喜ばれていて、嫌がられても、2つ3つ何かを運べばまだ回収できるものがあったじゃないですか。
もしそれが次の、戦時下のなかで物を運ぶってなった場合に、味方に運んでいるんであればある種ハッピーだけど、お互いに諍いがあるもの同士の中間、中立の立場で物を運ぶってなってくると、事情は変わってきそうだなと。お前は向こう側の人間なんじゃないかっていう風に言われるようになったり。もしかしたら向こうが良かれとしてやったものとかが、諍いの種になるとかもあるんだろうなって思ったりすると気になりますね。
紛争という意味でちょっと思い出したのが、@KCUA(アクア)っていう京都のギャラリーで、田中功起さんっていうアーティストの映像作品の展示。色んな立場の人が9日間の共同生活をするというワークショップを撮影したもので。すごく印象的だったのが一番最後、共同生活が終わった後に9日間を振り返って感想を言い合うという、ひとつのワークショップを行うんです。そこでドイツ人の40〜50代くらいの男性と、10代後半か20代初めくらいのパレスチナ人の女の子が、車の運転席と助手席で喋るっていうシーンがあるんですよ。
車の運転席と助手席って結構喋りやすいじゃないですか。距離は近いんだけどふたりとも同じ方向を向いているから、対面すると喋れないことが喋れるような距離感というか。
林:向き合わなくていいですからね。
石原:その子はイスラエル占領下のパレスチナに住んでいて、今はドイツに亡命している。それでそのドイツ人男性が「あなたの国において車はどういう意味合いを持ちますか」みたいな話をしてて。それに対して「非常に変に聞こえるかもしれないけれども、イスラエルに占領されていないパレスチナには壁があって自由に移動することはできない。だけどイスラエルに占領されているパレスチナに住んでいた私たちは、車で自由に移動することができたんだ。」って言っていた。
戦時下で物を運ぶかもしれないサムのことを考えてたら、なんだかそれを思い出しました。ガザ地区とかは占領されていないので国としては自由なはずなんだけど、追い込まれちゃってるから、身動きが取れないっていう状況で。イスラエル占領下のパレスチナの人たちと、ガザ地区のパレスチナの人たちっていうのは、あまり関わる機会もないらしくて。でも彼女は何回か、学校の一連の行事のなかでなのかな、なにかそういうもので少し会ったみたいなことをちらっと話してはいたけど。

ニュースで見ていると常にずっと戦争が起きているような感じがするけど、でも今もパレスチナとかガザ地区とかって子供が生まれたり、そこで働いてる人たちがいて、学校があって、教育があって、というのは全然あるんですよね。もしかしたらそういう、戦時下における日常みたいな部分とか、占領されている/されていないとか、自由とか自由じゃないとか、そういうものが見えてきたりするのかな。そういう国際的な現状、今だって戦争が起きてますからね。
林:そうですね。確実にそこは入ってくるだろうという風に思いますけどね。そういうものを入れないわけがないっていうか。
石原:このゲームを作った人間が。今だってリアルタイムに、少なくとも2か所で戦争が起きていて。
林:あとやっぱり『メタルギア』も『デススト』もそうなんですけど、やっぱり基本的にアメリカの話をしようとしていると思うので。じゃあ今起こっている戦争にアメリカが関与してないのかっていったら、関与あるじゃないですかそこは。それは入らないかっていったら、入るでしょうっていう。特に『メタルギアソリッドⅤ』とかは、アメリカの話だなっていう感じがすごくする。まあ、私も実際アメリカに行ったことがあるわけじゃないから、わからないけど。でも話だけ聞いていると、「アメリカヤバいな」って思うことはあるんですよね。実際見てないからそんなに軽々しくは言えないんですが。
石原:自分はアメリカに何回か行ってて、日本よりもはるかに風通しが良いなって思うときと、ヤバいなって思うときの、なんか2つありますね。
それこそ大学生の時にカリフォルニアに行った時は、UCバークレー校っていう、ノーベル賞とか取るような人たちもたくさん輩出してるような大学があるんですけど、そこの大学院生はアジア人がすごく多くて。優秀なアジア人がその辺に住んでいるから、アジア人に対する差別や偏見が薄いんです。そこのとある先生は中国の文化大革命の時に、ポケットにありったけのお金を詰めて、アメリカに移って、そこから大学教授まで登り詰めたという人で。中国だとそういう成り上がりとかはできないし、文革の時に物理を志すみたいなことって政治的にマイナスだったから、こういう人が登り詰めるなんてことは絶対にありえない。その話を聞いた時、やっぱりアメリカンドリームって本当にあるんだっていう。
でもその一方で、そこで会った日本人の大学院生から、ちょうど選挙の時にもっと保守的な地域に行ったら、普通にイエローモンキーって言われたっていう話も聞いて。いまどきそんな言葉言う?って思ったりとかするけど。
それからローフードって言って、火を使わない料理を食べる人たちがいて。発酵食品とか、ものすごい低温調理をする健康食品ジャンルがあるんですけど。ちょっと面白そうだからって、家族でそれを食べに行った。私は結構好きだったけど、その店がすごいわけ。タロットみたいなのが置いてあって「星の声を聞きなさい」みたいな。ほら聞くのよ窓の外の鳥の声を……みたいなやつが。おお、すごいって。
林:呪術的ですよね。その感じっていうのは多分イギリスとかにはないんでしょうね。アメリカに来ないとなかったような感じがしますね。軽々しくは言えないけど、だから多分、元々持っていた宗教的な部分と、アメリカに来たことによって拡張された部分っていうのがかなりあると思います。多分そこにはネイティブアメリカンとかの思想が多分に入ってる気がします。でもそれもその人たちから本当に受け継いで取り入れたというんじゃなくて、ある種の擬態というか真似というか。
石原:憧れ。
林:そう、憧れみたいなところっていうのが、多分にあるような。アメリカってそういう複雑さがすごくある気がするし。日本も、直接的じゃないにせよ、間接的にアメリカからそれを輸入してきて、フィクションとかでもそういうのって見られるから。だから実際に行ったことがない私でも知っているわけで。ヒッピー文化とかもそういうところじゃないですか。
石原:ヒッピー文化、禅の影響とかもありますよね。逆にそれがまた戻ってきて、面白いな。これだけ影響しあってるんだって感じですけど。『デススト』もアメリカが舞台になってて、アメリカってそういう大国だってこととか、先祖代々とか血脈みたいなものが成立しない場所っていうのも結構大きいと思って。『デススト』のことだけとして考えると、やっぱり分断してまた繋がるっていうようなことを話したい、多様性みたいなことを話したいってなると、アメリカって題材はちょうどいいですよね。
ネイティブアメリカンは現在ではマイノリティに扱われてしまっていて、他は全て移民なんです。せいぜい何代か遡ってしまえば、事が足りてしまうし。いろんな人種がいて、それが差別されたり差別したりっていうのはすごくあるんだろうなっていう風に思うし。私は、ヨーロッパよりアメリカのほうがいいなって思うところがあって。そこは何かって言ったら、自分をバックグラウンドで支えてくれる一族みたいなものがたかが知れてるから、そこで、今いる人たちの中でルールを決めましょうっていう姿勢は、アメリカのあるところにはめちゃめちゃある。無いところには無いけど、そのあるところにはあるっていうレベルがすごく高い。
やっぱりヨーロッパとかってもう何代も続いて、そこの国自体が大きな歴史を持っていてってなるし、自分も日本にいて日本人とか日本文化に対して「うるさい」みたいに思ったりする。そこから切り離されてるから、そういういいところ、すごく面白いところがアメリカにはあった。
林:そうですね。なんだか戻ってきましたね、ちょっと前のルールの話に。暫定的にそれぞれでちょっとずつルールを調整していくっていうところがアメリカは面白いのかも。私はそうは言ってもやっぱり保守的な人間なので、その感じがあんまり無いんですけどね。でも、都度ルールを調整していくことの大事さは、最近すごく感じますね。今石原さんが言っていたアメリカの良いところって、慣習っていう見えないものをみんなが、というか個人がひとつひとつ見ていかなくてもいいっていう。
石原:「全米が泣いた」ってすごい馬鹿にされる言葉だけど、でも全米が泣けるって相当すごいな。だって、あれだけ民族が違ってとか、思想が違う人たちが、マジでみんなが泣いたんだったら、それは多分なにか共通の価値観みたいなものを提示することができったていう話になるんじゃないかな。だけどじゃあ「全米が泣いた」ら、めちゃめちゃ単純なストーリーになってきたりするから、批判されるわけでしょ。やっぱり人って単純なお涙頂戴がいちばん響くんだなって思います。ただそういうアメリカのことを色々馬鹿にするエピソードとかっていうのを見れば見るほど、これぐらい人間ってすごく違うし、それこそ猫を乾かそうと思って電子レンジに入れるとか、ありえないでしょって思うけど。馬鹿だなアメリカ、こんな馬鹿な判例があるらしいぜっていう風にすごくうちらは言うけど。日本ではそれが見えてないだけで。
林:日本でもありますよね、それは。見えづらいっていうのもあるし、起こりづらいっていうのもある。慣習の力が強いから。バランスが難しいですよね、1から10まで全部に注釈をつけておくことがいいのかっていうのもあるけど、じゃあ文脈や慣習を理解してくれっていうのもよくないしなって思う。
石原:やっぱりいちばんスムーズに理解できる人はちょっと立ち止まる時間が多分必要なんだろうな。それがうまくできない人たちに対して、その人たちが何回でも質問できるような環境を作るとか。語学的にもだし、精神的にもっていう人たちが色々いたりするけど。もし忙しくてそういうセーフティーネットを張ることができないんであれば、じゃあ別の場所のセーフティーネットに誘導するぐらいはしましょうっていうのは、思ったりするんだよな。
そうですね。あと、単純にいまはもう人もいないし、お金もないので。そういう人たちをどういう風にケアするか、たとえばそこで個人の親切心だけでそこがケアされてしまうと非常にまずいなって。
石原:それは優しい人が死ぬやつ。そうなんです、消耗するやつだよなって。
林:その人が自発的に自分がやるものとしてやっている分にはいいのかもしれないけど、会社とかに雇われていてそういうことをしていると良くないですよね。だから会社がそういうことをしてあげたってことに対して、何かその人にもケアをしないと良くないかなっていう気がしますね。じゃなきゃそのうち誰もやらなくなりますよ、それ以上のことは。だからせめて、サムくらいの「ありがとう」は欲しいです。
石原:いや、ほんまや。「いいね」ボタンを。
林:そう、「いいね」ボタンでいいんですよ。そんなの、ただの記号だけど「いいね」ボタンなんて、ないよりはあったほうがいいですからね。

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