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往復書簡ー石原2

崎田さま

明けましたね。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

今年は能登半島の大きな揺れから始まったことで、東北で学んだ学生時代のことを思い返していました。少しでも早く皆様の生活が落ち着かれるよう、私なりに出来ることをしようと思っています。

さて、師走を言い訳に返事を延ばし延ばしにしてしまっていました。『アガタ』のことはいいとして、並行して制作していた自作の話、となると、どうにも筆が重くなってしまっていたのです。とはいえ、崎田さんが『アガタ』で感じていた「わからない」と言える場、「わたしたち」の作品に紐付けながら、えっちらおっちら書いてみたいと思います。(それはいつか回り回ってゲッコーパレードのコレクティブの件について繋がっていくようにも思います。)

私が初め崎田さんに誘われた時、正直に言って、やってみたい!と同時に不安がありました。というのも、戯曲を決めるー戯曲の解釈について話す、まではイメージがついたものの、稽古に入った時の自分のポジションが全く思いついていなかったからです。ただこれも、1通目の手紙で「壁」というキーワードを出したように、実際に稽古に入る時には、とにかく崎田さんの言葉や出してきたものにリアクションをしようと覚悟を決めました。しかし、観劇の趣味はあろうと演劇作りは初めてなので、果たして崎田さんのパフォーマンスにリアクションが出来るのか…一抹の不安があったのですが、実際は、思ったよりもーーー出来たようです。それはこれまでメンバーとして崎田さんの芝居を見てきたこともあると思いますし、崎田さん自身「わからない」ことに正直だったからだと思います。

先の手紙でも、多くの稽古の場では俳優が「わからない」という状態でいることは良くない、とありましたが、私は制作というのは「わからない」と向き合うことなのではないかと思っています。なので逆に振り返りで「わからない」と言えたことが良かった、という感想が意外でした。もちろん、集団で制作をする時に、みんなが「わからない」から「考えてこなかった」だと、膠着が続き疲弊しますが、「考えた」上で「わからない」場合は、フレーム(設定や構造)に集団で考えるべきところがあるから、個人で決めきれず「わからない」になるのではないかーーこれは学生時代に「東北画は可能か?」という集団で共同制作をやってきた経験からですがーー思いますし、それは個人の制作でもそうです。

少し自作の話をします。私は、シリーズ毎にいくつかのアプローチがありますが、共通して「仮説を立てて、制作をしながら考えていく」というものがあります。今回、『アガタ』を崎田さんと作りながら、私は崎田さんと向かいあうってことがどういうことかを考える作品を作りました。

元々は違う作品を作る予定ーー崎田さんにモデルを頼み、その形を借りて絵を描くーーだったのですが、モデルを頼んでポーズをしてもらう中で話し、「どういう心持ちでポーズすれば良いですか?」と聞かれたことで、「あ、これじゃないんだな」と思いました。少なくとも今じゃない。これから一緒に『アガタ』を作る崎田さんを自分の世界観で演じてもらうことを『アガタ』と並行して行う切替ができないかもな、と思ったのです。

そこで、上記したように、対峙した姿で描くことに決めました。(展示の際には『アガタ』と切り離されるので、それが良いのかは考え続けたいところですが。)『アガタ』の話をして、描いて、稽古して、描いて。制作の手法自体は、過去の作品と変わらないのですが、過去の作品は出会ったことのない人々の画像から描いていたのに対し、今回は崎田さんであったことは描いている心持ちは違いました。描いていくなか、一度顔の絵具が全て落ちたことがあるのですが(その絶望感をどう表せばいいことやら)その後描き直した顔はなぜか私の幼い頃の顔に似ているようでした。35歳の女性を描いているはずなのに、若く、戸惑っているようでした。多分、私はアガタを描いていたのだと思います。描いて削ってまた描いて削ってを繰り返す行為は崎田さんとの稽古を振り返りながら行っていましたが、普段であれば知れば知ろうとするほど遠ざかっていくようなイメージがあるのに対し、この人はどんな人だと探し続けているような気がしていました。

あの時、崎田さんが「わからない」まま稽古場に訪れ、演じ、私がリアクションしている時、さまざまな動作、表情について、その時のアガタの心情について私たちは語り合いました。好きな人の歩く足音に耳を澄ますこと、だったり、まだ腹落ちまでしていない決意を自分に言い聞かせてみることだったり。アガタはフィクション上の人物ですが、戯曲の通り演じれば現れてくるのではなく、崎田さんや私の経験と想像の延長線上に現れてきました。あそこまで一つずつ石を積み上げるように人の行動と言葉の裏側を考えたことも、そうないなという時間でした。

もしここで、崎田さんが「わかった」状態で現れたら、私はどのような役割を成し得たのでしょうか。少なくとも、この作品を「わたしたち」の作品だとは言えなかったように思います。そして私の作品も、もっと崎田さんの顔や姿に似せなければと形に意固地になっていたように思います。いや、そもそも稽古の時、私は崎田さんと向き合っていたのでしょうか。私が描きながら崎田さん⇨アガタになっていくことを許せてしまっているように、これはアガタと崎田さん、私との三角関係だったのではないか、と思うのです。

先の手紙で崎田さんは「役割的なコラボレーションもあるけれど、人間と人間が交差する家族的なコラボレーションも必要だ」と書いていました。今回崎田さんと作るにあたって最近ハマっていることや仕事のことなどプライベートな話をする機会も多かったし、同い年の女性で、最近拠点を変えたことで発表の場に悩んでいることも近しい。アガタが最後、別れを自分に言い聞かせるようにして部屋を出ていくシーンは少なからず現在の私たちが重なっていました。

しかし、集団でものを作る時に、「さぁ腹を割って話しましょう!」は、なかなか難しいです。話そうとしても、その場の関係性で役割を演じてしまう。ええかっこしい、してしまうんですよね。ただ、今回稽古をしていて、セリフの解釈やアガタの心情について話しあうとき、プライベートの話では出てきづらい価値観や視点が自ずと透けてしまった。作品の話をしていたら脱線して、気がついたら最近考えているナイーブな話をしてしまっていた。

私は、集団でものを作る時に「家族的」で示されるような親密さが必要かは保留にしておきたいと思います。ですが、作品を作るときに立ち現れる「わからない」について共に考えること、答えを出そうとすることは、依拠できる実感が私たち作り手の経験や考えに基づく限り、人間と人間が交差せざる得ない行為ではないかと考えます。

少々回りくどく長々と書いてしまいましたが、『アガタ』を経て崎田さんと振り返る中で、私はなんだか「私たちの作品」「人間と人間の交差するコラボレーション」のヒントには「わからないに共に挑む」ことにあるように思えています。

崎田さんは今、別の団体で作品制作をしてますね。個人プレーが基本の絵描きの私にとって、役者として様々な集団に飛び込んでいく姿に凄いなぁと思うばかりなのですが、どうでしたか?公演見に行きますね。楽しみにしています。


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