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石原 葉
Ishihara Yo

「演劇をどこまで遠くへ」

2018年、東北芸術工科大学の博士課程に在籍し、絵画と観者の関係について研究をしていた私は、同大学主宰の山形ビエンナーレ2018にゲッコーパレードを招聘し演劇公演を企画した。芸術祭会場である美術大学と、施設内で行われるアーティストたちの個々の展示会場、山形という土地を、彼らの持つ演劇的手法であれば繋げることができると思ったからだ。結果、地方芸術祭において鑑賞者が体感する多重のレイヤー、その視点の移動を追体験する公演となった。

この公演が演劇というジャンルにおいてどのような立ち位置になるのかは、絵画が専門の私には分からない。しかし、場所と戯曲(ストーリー)と俳優の身振りといったレイヤーが観客に複雑に働きかける手法は、展覧会という形態をとった一つの作品ーーキュレーターがアーティストとして振舞う展覧会に近しいように思えて仕方がない。また、絵画が共同体の紐帯となっていた時代の作品ーー宗教画や神話画の構図の選択にも繋がっていくように思う。演劇にしろ、アーティスティックキュレーターによる展覧会にしろ、絵画にしろ、メディアという線引きを排除して、観者への働きかけ、その手法という視点から見れば、同列に語ることが出来るものへと転じるだろうし、そもそも「表現」と言う言葉が、何かが表され、何かが現れるものである限り、それは誰かの眼前であるはずだ。

誰か、それは自分とは違う身体をもった人間だし、そもそも作品の一番初めの鑑賞者は客体化された自分自身であるかもしれない。なんにせよ、その他者に向けて働きかける。そしてその暗号めいた表現を解釈する観者がいる。その相互の働きかけが行き来する場所は、一時的なものとはいえ「共同体」とは言えないか。何百年も昔に作られた創造物を、その時代とは随分様変わりした生活様式を持った私たちが、美しいとか、恐ろしいとか思うことが出来るその感性は、営みの中で脈々と受け継がれてきた。それを思うと、作品に対峙する私、は一人ではなく、大きな流れや私を取り巻くものの中、その一端で作品と向き合っているのだと思えるような気がしている。

演劇を遠くへ。どこまでか遠くへ。美術家である私は、今後作られていくだろう作品が演劇であると確証もって判じることは出来ない。アートや絵画からどれくらい離れ、どれくらい近しい存在であるかということを語ることしかできない。しかしその交歓の中で、作品がジャンルを超え、その作品でしかないものになり、その作品によってジャンルが豊かに拡張する。そんな日を見てみたいと思っている。

石原 葉 / Ishihara Yo

美術家 / Artist Painter

1988年生まれ
2020年東北芸術工科大学大学院博士課程修了

他者との共生と絵画におけるシアトリカリティを研究テーマに、絵画制作、他アーティストとの共同活動を行う。制作において人が風景や人と対面する際に無自覚にも重ねてしまうフィルターを、一度描いた風景や人物を白い絵具で覆ったり削ったりという行為によって表現。

ゲッコーパレードの他に、東北におけるアートのあり方を模索する「東北画は可能か?」にて共同制作や主な展覧会における展示構成を担当。ものづくりユニット「NOPS」ではZINEを中心とした共同制作、活動を行っている。現在、京都精華大学芸術学部造形学科日本画専攻特任講師。

https://www.yoishihara.com/